ペリー来沖時には掲げられなかった”守禮之邦”の額
琉球王国時代、最初に建設されたメインストリート・綾門大道(あやじょううふみち)に、守礼門は位置しています。
中国皇帝の遣わした冊封使(さくほうし)と呼ばれる使者の一行も、この坂道を通って、首里城へと上りました。
中国から使者を招いた際、新琉球王は守礼門の建つ場所まで出向き、使者の一行を迎えました。
守礼門の“守禮之邦”という額は冊封使に対して手向けられた言葉ですが、その意味は“中国という親国と琉球という子どもの国の間に存在する上下関係を、我々琉球は守っております”という意味。
1853年、アメリカのペリー艦隊一行が琉球を訪れた際、大砲2門を押しながらこの坂道を楽隊を引き連れて上ってきました。当時、艦隊に随行していた絵師の描いた守礼門の絵を見ると、守礼之邦の額が掛け替えられていることがわかります。つまり、お迎えする客人に対して自らへりくだる意味のあるこの額を掛け替えたということは、ペリー一行に対して恭順する気がないことを表す、琉球側の小さな意思表示だと思われるのです。