万国津梁の鐘をつくったのはウチナーンチュではない?

 

首里城正殿の前に掛けられていたという「万国津梁の鐘」(1458年)。現在、供屋(ともや)に設置されている鐘はレプリカで、本物は沖縄県立博物館に所蔵されています。
鐘に刻まれた文字には、琉球がアジア各国と親密な関係を築き、貿易によって繁栄している様子がうたわれています。
「津梁」とは「架け橋」の意味。
沖縄県民はこの文が大好きで、2000年サミット会場になった場所は「万国津梁館」と命名され、沖縄県知事の部屋にある屏風にもこの文句が記されています。
鐘にはこう刻まれています。「琉球国は南海の勝地にして、三韓の秀をあつめ、大明をもって輔車となし、日域をもって唇歯(しんし)となす。この二中間にありて湧出せる蓬莱の島なり。舟楫(しゅうしゅう)をもって万国の津梁となし、異産至宝は十方刹(じっぽうさつ)に充満せり」
意味は「琉球国は南海の景勝の地にあって、朝鮮のすぐれたところを集め、中国や日本とは親密な関係にある。この間にあって沸き出でる理想の島である。船をもって万国の架け橋となり、珍しい宝物はいたるところに満ちている」
実は、交易の繁栄を記した箇所は全体のわずか4分の1。あとは王(尚泰久)が仏教を保護して平和な社会になったことが記されています。
大工は藤原国善。文章の作成は渓隠和尚。ヤマト文化と仏教文化の影響がうかがえます。