幼くして即位した尚温王。その冊封のためにやってきた中国からの使者・趙文楷は、激励の意味を込めて、識名園の泉を“育徳泉”と名付けました。「この小さな源泉が、池に流れ込み、川となってやがては海へと流れていくように、大きな徳を持った王となりますように」
その思いに応えるかのように、様々な内部改革に乗り出し、時には重鎮たちとも対立し、自らの理想に燃えた尚温王でしたが、道半ばにして十代の若さで病死してしまいました。次王である子の尚成も、その後すぐに亡くなってしまいます。若くして夫と息子を失った王妃の、悲哀に満ちた生活ぶりは、人々の涙を誘ったといわれています。